※くれい先生の波乱万丈ストーリー❷ 拒食症~バイクにはねられる~

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前回につづき、いよいよ私の修行時代から・・・粉砕骨折するまで。

【 修業時代 】 ○拒食症になった私は・・・大阪へ来てからも、なかなか元の体重には戻らなかった。それどころか、更に痩せ続けた。一時は39~38㎏まで落ちていったのだ。師匠も先輩も心配になった様で”それじゃ、死んでしまうで”とも言われたこともあった。その後しばらくして、「簡単なある事がキッカケ」で、みるみる以前の元気な体になる事が出来ました。そのうち、なんと72㎏になったこともあった。でもあまりの急な体重増加は、脂肪の増加が主で、階段の登りが重く感じらレました、なのでいくらか落としました。

 

 その鍼灸院の場所は、大阪梅田駅の前、阪神百貨店の横、丸ビルの前にあったゴチャゴチャした元繊維関係の建物が沢山あったらしいのですが、当時はもうすでに寂れていて麻雀荘や飲食店その他商店等が軒を連ねていた所だった

 名称は『健康普及会大阪道場=健康道場』。ここで12年間修業(その後半の3分の2は実質的に任されていた)。今となってはこの時期にあらゆる疾患を診る事が出来、本当に感謝しております。又、そこで助手を勤めながら鍼灸学校に通学。午前中は鍼灸院、午後から学校、夕方又鍼灸院に戻り助手。その2年後鍼灸学校卒業と同時に、今度は整骨院の学校に入学し。夕方からは淀川区姫島にある整骨院で助手をするという「鍼灸と整骨の2足のわらじ」を8年間続けました。

 

【 開業 】12年間の修行後、S60年西梅田にて暮井鍼灸院として独立開業!・・・も、わずか半年後に地主が土地売却してしまった。・・・どして?(当時バブルで地上げ屋さんが猛威を振るっていた!)、猶予期間の1年後に立退き。

その後、再開業場所探しを兼ね他の整骨院で2年の時が流れた。

S.63年「良い物件が見つかった」との不動産屋さんから電話が…。

阪急淡路駅前にて、『くれい鍼灸整骨院』として再スタートした。開業当時の数年間は、殆どの休日を各種研修会に充て、完全に休めたのは年6日ぐらいの時期が続きました。

・・・~中略~・・・

担架で搬送される人のイラスト

(時は過ぎ・・・)大変な事が起きた!九死に一生の事件に遭遇! なんと私が交通事故で全身骨折!。 平成21年夏の晩、自転車で帰路途中バイクと正面衝突! そこは自宅到着も、もうまもなくと言う地点であったのだが…。 自転車のライトを点灯し歩道を走行中…前から来た2列に並ぶ自転車を避けてあげようと(反射的な行動だったと思う)歩道から車道に降りた。 ところがだ、道路の柵がその部分だけその先「ず~っと」と続いており、戻ろうとする歩道へ上がる場所がないのだ! 一瞬いやな予感が頭をよぎる…。 その時先方200メートルぐらいから、バイクが速度50㎞ぐらいだろうか!?こちらに向かって来るのが見えた。 

バイクに向かって自転車を走らせるのもいやなので私は自転車をまたいだままそこで止める…”バイクをやり過ごそう”と思った。 これで、全方から来るバイクだから私を避け通り過ぎるだろう・・・と思いきや・・・止めた自転車の私めがけて、そのままのスピードで正面から直撃! ・・・その直撃される数秒直前に私は覚悟をしていたああ、私はここで死ぬんだな!”・・・。 

 担ぎ込まれた救急病院(千里救命救急センター)。左前腕2骨の粉砕骨折(いくつにも粉々になった骨折)右鎖骨骨折、右小指骨折、右側頭骨骨折、その他大腿、下腿の挫傷もしていた。数日後に手術。その時に腕の中に入れたセラミック製副子は、今現在もそのままです。 友人達は皆がこう思ったそうです「くれいさんも、もうこれで終わったな!」

 

 さて、受傷後28日目、ギプス除去直後、腕を動かすと「ぐにゅっ」と腕の中で骨が動いてた~まだ骨が硬く固まっていない事は明らか・・・。 でも、そこは私も専門家、“それならば、逆に完全に真っ直ぐにさせる事も出来るではないか!よ~し!…自分で完璧に治してやる”・・・と決意。 帰宅直後にで骨折している右手で厚紙副子固定、レインボー療法、中国の推拿(すいな)療法の1種の手技を開始。 私と同じく柔整師の息子に鎖骨の固定をやってもらい、さらに超音波照射も併用した…。その甲斐があって現在使用に差し支えなし。 

 この体験で、あらためて東洋医学と西洋医学、両方の素晴しさを実感すると共に、新しい治療法発見にもつながりました。 わたしの骨折体験は、こんなもんじゃない!なにを隠そう他にも数々の骨折経験しているのだ!私は骨折経験の超ベテランなのだ!どうだまいったか!・・・ん? 次号の❸へ続く